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メモ

 投稿者:Patrasche  投稿日:2010年 1月16日(土)00時05分22秒
返信・引用
  プラダを着た悪魔

美 = 価値 (=ファルスの獲得)

ファルス(権力)= ミランダ(=価値の生産者、支配者)→ 美 (ランウェイ)

ファルス(ジャーナリズム)≠(挫折) アンディ
             → 美 (魅力)の習得 = ファルスの変換
                          (コードチェンジ)
ランウェイ   =  視覚的ファルス(=美)
ジャーナリズム = 非視覚的ファルス(=言語)

彼氏 = 料理人   = (非視覚的)美、価値の探求者
友人 = 芸術家   = (別次元の)美、価値の探求者
    ギャラリスト = (別次元の)美、価値の支配者
 
 

メモ

 投稿者:Patrasche  投稿日:2009年10月 2日(金)03時37分20秒
返信・引用
  喫煙が無意義であるのは、喫煙によって得られるものが“喫煙の欲望”の充足であるからだ。
“喫煙の欲望”の原因は喫煙による。
喫煙による“喫煙の欲望”の発生と喫煙によるその充足が喫煙の基本的な構造を成している。

社会を生きる上で喫煙が不利益であるのは、喫煙者は交際可能域において非喫煙者よりも不利であるからだ。
(交際可能域とは、可能性として交際できる人々の範囲のことである。)
非喫煙者は喫煙者と交際するかしないかを“選べる”が、喫煙者は“選べない”。
権利を持つことが利益であるという前提に立てば、この選択の権利の有無が喫煙が不利益である所以となる。
ちなみに、非喫煙者が喫煙者との交際を拒絶した場合、その非喫煙者の交際可能域は喫煙者より狭い。
(これはすべての喫煙者は非喫煙者との交際を拒絶しないという前提の上に立つ。)
かくして、それぞれの交際可能域の不等式は、
喫煙者とも交際する非喫煙者 > 喫煙者 > 喫煙者と交際しない非喫煙者
となる。
 

ギア・セカンド。

 投稿者:Patrasche  投稿日:2009年 3月28日(土)01時12分10秒
返信・引用
  厳しい言葉ですね。
今、わかりました。8さんは真面目です。僕は安易でした。
安易と真面目、どっちでもよくないでしょう。統一するべきです。
そこで、今回から、僕も真面目になります。
ただ、8さんにも要請があります。もっと長く書いてください。踏み込みが弱いです。
遠くにいないで、土俵に上がってきてください。
賛成か反対か、共感か違和感か、そのような感想を提出するのではなく、
矛盾を抱えているであろう自分の思念を、そのまま言葉で表出してください。
難しくても挑戦してください。攻めてください。

では、本題。
これより、本気度UP。

ギア・セカンド。

“示す”については、また今度お話しましょう。
それは僕がヴィトゲンシュタインから学んだことなので、
説明する場合、彼の哲学を紹介することになります。
それはそれでいいのですが、今回は解釈の具体化について説明させてください。

まず、「具体」とは何でしょうか。(以下、言葉の地平すなわち具体の意味についての確認から)
すでにご存知かもしれませんが、そこから話を起こしたいと思います。

大学受験における現代文の基本なんですが、具体の対義語は抽象です。(具体 ⇔ 抽象)
これを知っている人はたくさんいますが、意味をしっかり把握している人は少ない。
でもすごい大切です。なぜなら、二つは言葉の成立にすごく深く関わっているから。

8さんのおうちに『広辞苑』がありましたね。しっかり確認してください。
それをお読みになったという前提で話をすすめます。

『広辞苑』(哲学事典でも国語辞典でもなんでもいいのですが)に書いてあるように、
抽象は必ず捨象とセットです。対象の全体ではなく、ある側面を抜き取ることが抽象です。
ある側面を抜き取って(抽象)、それ以外を捨て去る(捨象)、ここからが重要です。
では、その抜き取った側面はどこへいくのでしょうか。
というより、抜き取ったり、捨て去ったり、どこで為されるのでしょうか。
答えは「思考」です。
抽象も捨象もすべて頭の中で為されます。(抽象 ⇨ 頭の中)
それに対して、具体とは必ずこの現実にあり、全体性を持って、存在を認識できるものです。

 具体 ⇔ 抽象
   ↑     ↓
 現実   思考

ところで、思考の単位は概念であるといわれます。(『岩波哲学思想辞典』「概念」参照。)
概念を組み立てて、我々は思考するのだということです。
例えば、一般概念は抽象によって成立します。(抽象 ⇨ 一般概念)
別々の対象から共通の側面(本質)を抽象し、それを寄せ集めたときに一般概念が成立します。
これは概念芸術(コンセプチュアル・アート)の意味を理解する上で大変重要です。
概念芸術は概念の芸術ですから、抽象的な芸術だということになります。
抽象は現実からある側面を抜き取る作業ですから、現実から離れます。
現実を分析して、得られた抽象的“部分”を思考内で再構築する体験。
それが概念芸術の芸術体験です。
概念の場所は思考内なのです。

以前、横浜美術館でマルセル・デュシャンの回顧展のおり、
たしか展覧会の副題は「芸術を裸にした男」だったと記憶しています。
僕にいわせれば、あれは間違いなく「芸術を概念化した男」という意味です。
具体的に展示されてある“それ”が作品なのではなく、それは引き金に過ぎず、
その直後に、観衆の思考内で再構築される概念が、彼の作品なのだと思います。

準備が整いました。
「何を具体的にするのか」について。

解釈というのは具体化です。これは次のような意味です。
僕らは思考します。それはもういろいろなことを。
欲求(食事、睡眠、恋愛)、哲学(人生、時間、存在、倫理)、そして、芸術、遊戯、サッカー。
以上はすべて一般概念です。
よって、それらに関する思考というものは、抽象的で、頭の中で為される活動です。
では、解釈とは?
ある女の子について、夜通し思考していました。
そして、明け方、自分の思考内容について、ある解釈が成立したとします。
「そうか、僕はあの人のことが好きなんだ。お付き合いしたいんだ。告白しよう。」
結果、桜が散ったとしても、重要なのは、解釈によって、現実が変化したということです。
解釈の本質は、現実に関わることです。この考えは、対話において、いっそう顕著になります。
Mr.Sato 「マナちゃんとカナちゃんなら、絶対にマナちゃんのほうがカワイイ。」
Mr.Iwase「そうですか。そうですかねぇ。うーん。そうかもしれません。」
このように、表面的に同意するだけの返答は解釈とはいえません。しかし、例えば、
Mr.Sato 「マナちゃんとカナちゃんなら、もう断然、マナちゃんのほうがキュートだ。」
Mr.Iwase「でも先輩。二人は双子ですよ。そんなに違いはありませんよ。」あるいは、
     「それはそうですね。笑顔なんて、カナちゃんとの差は歴然ですよ。」
上の返答は否定していますが、下の返答は同調しています。
解釈であるかどうかに、それが否定であるか同調であるかは関係ありません。
問題を共有しているのかどうか、思考が現実に関わっているかどうか、そこが重要です。
問題を共有する場所、それは現実です。
マナちゃんについて思ったこと、それを実際に言うと、現実に変化が起こります。
実際に言う、つまり具体化です。抽象的思考内容から、現実の発言へ。

ただ、ここで注意点。言葉というのはそれ自体、本質的に抽象的なものです。
(具体と抽象は、白と黒のような関係ではありません。グラデーションのようなものです。)
具体といっても、「具体」という言葉は概念であり、抽象的なものなのです。

「何を具体的にしなくていいのか」について。
僕は“場所”という言葉にこだわりだしてから、
以降、具体的なものに消極的になっていたように記憶しています。
それは“場所”というものが抽象的なものだからです。
一般概念は、別々の対象群に共通の側面(それは対象の本質でなければなりません)を抜き出し、
それらを寄せ集めて、それらに名を与えることで成り立ちます。
ここで、特殊と一般という基本的な概念を導入したいと思います。
特殊と一般は対義語です。(特殊 ⇔ 一般)
特殊とは、ある対象固有の性質です。それに対して、一般とはある対象群共通の性質です。
さて、ここからが重要です。
現実はすべて特殊です。特殊なものしかありません。厳密に同じ物など何一つありません。
僕は完璧な複製の可能性を論じているのではありません。
例えば、ここに、仮に「同じもの」が奇跡的に存在したとします。
しかし、それぞれは、片方が僕の左手にあり、もう片方が僕の右手にあったのなら、
その意味で、二つは違ったものです。違う空間にあったのなら、その意味で、二つは別物です。
特殊に満ちている、この世界に、どうして我々は共通のものを認めるのでしょうか。
それは抽象によるのです。抽象が一般を見出します。(抽象 ⇨ 一般)
個々の現実、すなわち具体的なものに固執すると一般を認められません。
具体的な現実から、対象の本質を抜き取って、思考内で捕捉するから一般が成立するのです。
まとめると、

 抽象 ⇨ 一般 ⇔ 特殊 = 現実 ⇨ 具体

さて、
僕は芸術の本質捉えようとしています。芸術とは何かを思考しています。
芸術という言葉は、まことに説明力に乏しく、その意味内容は意味不明です。
そこで、芸術という概念を解体し、また別の概念で再構築してみようと思うのです。
すなわち、個々の芸術現象から、共通の側面(本質)を抽象し、そこに名を与えようと。
そうして、芸術を説明するための一般概念を考察していました。
そうして生まれたのが“場所”です。
だから、“場所”は抽象的なのです。現実から離れて思考内で再構築したものだから。

では、具体化はもういいのか。
いやいや、解釈とは具体化です。
芸術における作品とは解釈であり、問題の具体化であると思います。
つまり、作品は、必ず現実に関わるものであり、抽象的な思考が具体的に表されたものであり、
社会や世間、観衆との問題の共有であり、提出です。
その解釈の具体化である個々の芸術現象は、一言で“場所”と(抽象的な一般概念)で表せます。
“場所”という言葉自体は具体的なものではありません。僕の思考の所産です。
しかし、解釈の具体化という意味で、“場所”は具体的なものです。
つまり、“場所”の意味するところは具体的なものです。
 

(無題)

 投稿者:8公  投稿日:2009年 3月27日(金)04時26分14秒
返信・引用
  安易か真面目かはどっちでもいいよ。それに、俺はもともと「真面目」だよ。ツバッ○ーに小屋作って、閉じ込めてるときも俺はおお真面目だ。そしていつも本気だ。

パトの書いてることは安易だと思わないし。同じ問題のところで話しているのもわかるよ。

ただ、何を具体的にして、何を具体的にしなくていいの?
「解釈ってなあに?」の投稿で書いてることと、今回の投稿は真逆に感じるの。

「僕はひたすら“示して”います。」
パトにとって「示す」って今の時点でどういうことですか?

例えば、なんでもいいから、活字にすることが示すってことなのか。そうではなくて、この投稿で話してることは、なんていうか、語ることそのこと自体は具体的に。語る意図は自由にって感じ?
 

週サン 少年(らしく)ジャンプ!

 投稿者:Patrasche  投稿日:2009年 3月12日(木)18時53分20秒
返信・引用
  「解釈の交流の話の位置が掴みづらいです。」

お気持ち、お察し致します。

この掲示板には「気楽」さがあります。でも同時に「真面目」なものでもある。
僕の「気楽」さが「安易」さに傾いたとき、ハチさんに迷惑をかけているのかもしれません。
自由に浮かび上がる発想を「安易」に記述すると、「真面目」に読もうとする人を困らせます。
でも「真面目」さに傾きすぎるのもいけません。
「真面目」に記述するというのは、つまり論理的整合性にこだわり、
使用する概念の定義を厳密に規定し、相手と問題とその思索を確実に共有するということです。
それでは、いけません。そのような姿勢では、絶対に芸術は捉えられません。
なぜなら、芸術がそのような仕組みをしていないからです。

確かに、最近の僕の発言は「安易」にすぎていたかもしれません。
でも同時に、僕はハチさんの発言は「真面目」すぎているようにも思います。
お互いの在り方が入れ替わったような。
(それはそれでおもしろい。互いに無いものを求めているのかもしれませんね。)

でも、以下、ちょっと「真面目」に書きます。
最近、「安易」だったとしても、「てきとー」には書いてません。



今まで交わしてきた「解釈の交流」の考察について、その地平は二つに分類できます。
一つが言葉の地平であり、もう一つが芸術の地平です。
話が複雑になる要因は二つあります。
一つは言葉の地平と芸術の地平が簡単に重なり合うということです。
むしろ、重なるのが自然で、通じ合うのが真理です。
二つを分けることのほうが人為的であり不自然なのです。
話が複雑になるもう一つの要因は、
言葉の地平の問題に対する考察も、再び言葉によってなされることです。
これは哲学における不変的ジレンマです。仕方がないですね。

それで、
「解釈の交流の話の位置が掴みづらい」のは、僕が次のような書き方をするからでしょう。
まず、僕は「解釈の交流」について、言葉の地平で話を起こします。
例えば精神分析の話をしました。相手の言葉を解釈するということ、それを考察したのです。
ところで「相手の言葉を解釈するということ」は、まるで芸術のようです。
僕の「安易」な思考の中で、言葉と芸術が重なります。
そこで、僕は言葉の地平で起こした「相手の言葉を解釈するということ」の問題を、
今度は芸術の地平で捉え直し、つまり芸術の地平へジャンプして、
それを「相手の言葉を解釈するということ」の説明として提出します。
ここで「相手の言葉を解釈するということ」の問題は、
厳密には「相手の芸術を解釈するということ」の問題へとすり替わります。
でも、僕は本当は“同じ問題”を論じているのです。“同じ問題”とは“解釈の交流”です。
芸術の地平において、「相手の芸術を解釈するということ」の問題を考察すると、
「相手の」という箇所が釈然としない、と多分、思ったのだと思います。
だって、芸術において「相手」という観念はあまり意味を持たないから。
そうして、「相手の芸術を解釈するということ」の問題は、
「芸術を解釈するということ」の問題へと高められます。
でも、せっかく響きの良い問題へと高められたのに、
いざ、その問題に取りかかろうとすると、困惑してしまいます。
「芸術を解釈するということ」という問題の意味がよくわからないからです。
そこで、原点に立ち返って、「解釈」とは何か、と考えることになります。
芸術に限らず、「解釈」とは何か。
そうなると、それは言葉の地平の問題です。
僕は再び言葉の地平へとジャンプして、「解釈」を考察します。
例えば、この掲示板自体を取り上げて、
相手の発言を「解釈」するというのはどういうことか、という問題に関心が向けられます。

掲示板を読み返していないので、実際の思索の過程はわかりません。
(多分、読み返してもわかりません。)
でも、多分、上のような過程なのだと思います。
肝心なことは、要するにこういうことです。
僕は「解釈の交流」という問題に深淵な可能性を直観しています。
でも、その問題の価値は意味の次元にはないのです。
だから僕はひたすら“示して”います。(この方法論はヴィトゲンシュタインのものです。)
連想されるものを、重なり合うものを列挙していくことで。
言葉の地平から芸術の地平へ。そして再び言葉の地平へ。
二つの地平を往復する中で「解釈の交流」の問題をより鋭く“示して”くれる表現に出会いました。
それが“場所”です。
考えれば考えるほど、この表現が気に入りました。
なぜか。それは、自分の気分にしっくりきた、としかいえません。
“場所”というと、しっくりくるのです。「安易」な気分なのですが。

だから、
「パトの芸術を場所といいたくなることは、なんとなしにわかるんだけど」というのは、
実は、僕も同じです。

「パトの考えている「解釈の交流」ということが、未だに不明瞭です。」
これが今後の問題ですね。

「というのも、なんか話の階層と言えばいいのか。話してる位置がいろんなことに行き過ぎて、たまにわからなくなります。」
これはジャンプによるものです。重なり合うと思ったときに、僕は違う地平にジャンプします。
そうしたほうが“示せる”と思うからです。
よかれと思ってしたことが、かえって混乱させてしまったようです。僕もがんばっています。

「解釈について、概念的なことで話していたと思ったら、「権利を行使する機会は用意されているのでしょうか」、「鑑賞する人々の態度、反応は「返答」と呼ぶに値するのでしょうか。」、「批評文、評判は「返答」と呼ぶに値するのでしょうか。」という質問があって、」
これについては、僕の記述の文体からもわかるように、
ハチさんが「真面目」に控えめな発言に終始するので、揺さぶろうと思って投げかけました。

「そのあとに実際の解釈がある訳ではないといわれて、」
これについては、そのときに書いた記憶があるのですが、そのときに新たに気付いたのです。
僕も気付きを得ながら、発見と共に記述しています。



それでは、長くなりましたが、このへんで終わります。
「解釈の交流ということを具体化することは難しいことなのかもしれないね。
だから、芸術ということをパトは場所と考えているの?たとえば、意味の解説において“場所”という表現を使うのは実に有効だとパトが言うように、芸術を「場所」と置くことで解釈の交流そのこと自体も、どういうものかハッキリしてくるというか。(なんか読解力なくてスマン。。)」
いやいや。ここまで読んでいただいたとおり、まさにそのとおりです。
忠犬ハチ公、読解力アリアリです。深く考えすぎて渋谷で石になってしまったんですね。
 

(無題)

 投稿者:ハチ公  投稿日:2009年 3月11日(水)05時07分33秒
返信・引用
  たしかに、建前上では誰もがいいそうだね。それから、建前上ではそう考えていても出来てきたモノがそうなっているかは疑問を抱くモノが多いのはたしかですね。自分の作品も含めてそう思う。

『「食べ物って何?」という問いに対して、
「栄養の媒体物」などというより、
「お皿の上にあるもののことさっ」と言ったほうが、
それは不適切なのに、(例外は多いし、概念の全体を示していません)
暴力的に深い位相で「食べ物」を捉えていて、僕は好きです。』

これに関しては僕も好きです。食べ物って何?って質問に対して、確かなことを示してなくても、本当の意味での芯をつかまえている気がする。

パトの芸術を場所といいたくなることは、なんとなしにわかるんだけど、
パトの考えている「解釈の交流」ということが、未だに不明瞭です。
というのも、なんか話の階層と言えばいいのか。話してる位置がいろんなことに行き過ぎて、たまにわからなくなります。解釈について、概念的なことで話していたと思ったら、
「権利を行使する機会は用意されているのでしょうか」
「鑑賞する人々の態度、反応は「返答」と呼ぶに値するのでしょうか。」
「批評文、評判は「返答」と呼ぶに値するのでしょうか。」

という質問があって、そのあとに実際の解釈がある訳ではないといわれて、その後にまた、公共性の例で出てきていることは、実際に起こっている解釈の交流の話が出てくる。僕もオーディエンスに対して、公共性ということは重要だと思う。散々、今まで自分でいた場所で訴えてきましたから。ただ、まだパトのいう解釈の交流の話の位置が掴みづらいです。これの前の投稿では、解釈の交流は、例え触れられなくても、お金を払ってとかではないところでの話だと思ってたから。

解釈の交流ということを具体化することは難しいことなのかもしれないね。
だから、芸術ということをパトは場所と考えているの?たとえば、意味の解説において“場所”という表現を使うのは実に有効だとパトが言うように、芸術を「場所」と置くことで解釈の交流そのこと自体も、どういうものかハッキリしてくるというか。(なんか読解力なくてスマン。。)

だから路線変更はしなくていいです。公共性を求めていくと数えきれないぐらい細分化しそうだし、解釈の交流ということを位置づけるには「公共性」からだけでは説明つかないと思うし。僕としては、パトの話していた、「創造」と「破壊」の両面があることが、解釈の交流を生んで公共性ということになるかもしれないから。公共性は解釈の交流を成立させるのに重要なものだけどね。とりあえず、路線変更はなしで。

あと、展覧会とインスタレーションの意味を一緒にするのはいけないね。あのような質問をしたのは、僕自身がその場に作品を置くことも全て、作ることと同じで自分自身がどこに置こうとインスタレーションをしているものとしてみていたし、俺にっとっては、例えば絵画を陳列していても、その空間では一つの作品としてみてることがあるから。変なこと書いたね。
 

食べ物ってどんな“場所”?

 投稿者:Patrasche  投稿日:2009年 3月 2日(月)20時44分53秒
返信・引用
  「こういうことなら、「返答」ということも理解しやすいよ。作家が作品を目の前にした観衆に対して受け入れる用意がなされて作品を作っているかってことでいいのかな。その態度?」

Yes か NO か、でいえば Yes です。
でも、明言を避けたいのが本心です。
というのも、
「作家が作品を目の前にした観衆に対して受け入れる用意がなされて作品を作っているか」
というのは、
建前上で成立しそうで、安く響きます。言葉って難しいですね。
だから、やはり僕は、芸術を“場所”といいたくなる。

“解釈の交流の場所”

「それってどういうこと?」と問われたら、やはり上のような表現になってしまいますが、
本当は、その意味を説明したくはない。

ところで、意味の解説において“場所”という表現を使うのは実に有効だと思います。
「俳優って何?」という問いに対して、
「演技をする人」などと説明するより、
「ブラウン管に映っている人」とか「スクリーンに登場する人」という説明の方が、
意味という次元においては、むしろ不適切であるのにもかかわらず、
より本質的な解説を感じませんか?
「食べ物って何?」という問いに対して、
「栄養の媒体物」などというより、
「お皿の上にあるもののことさっ」と言ったほうが、
それは不適切なのに、(例外は多いし、概念の全体を示していません)
暴力的に深い位相で「食べ物」を捉えていて、僕は好きです。

芸術を語る言葉には、このような感性が絶対に必要だと思います。

「食べ物」における「お皿」とは器であり、“場所”につながります。
「食べ物」を「お皿の上のもの」といいたいように、
「芸術」を、「芸術という“場所”にあるもの」といいたいのです。
(「芸術」の説明において、どうしても、再び「芸術」という言葉を使ってしまいます。これは、また別の問題)
ところで、暴力的に深い位相と述べましたが、
「暴力」は「破壊」と重なります。このようなニュアンスは芸術に付きものなのではないでしょうか。


さて、
「それから、返答は観衆がというのもわかります。作品の最初の観衆は作家だから。
 ただ、どのような状態が、解釈の交流になるのかってことなんだけど。」
について。

「どのような状態が、解釈の交流になるのか」
それは、公共性だと思います。
六本木ヒルズの高層階にあって、高い入館料をとって、ようやく出会える「触れられない」ものより、
無料で遊べる広場にあって、乗ったり、(お望みなら)舐めたりできるイサムノグチの彫刻のほうが、
はるかに優れた芸術だと思います。
もっとも、セザンヌの絵画をフリスビーにして投げて遊ぶべきだとは思いません。
芸術の公共性の問題は大変複雑だと思います。(芸術という概念が複雑なので)
この問題はとりあえず、おいておきましょう。(もちろん、お望みなら、路線変更で取り上げてください)
とりあえず、ここでは次のようにまとめたいと思います。

“解釈の交流”は、作品の公共性をもって成立する。

無論、公共性というキーワードは、僕の“場所”の考えに通じます。


最後に、
「あと、作品って一つ一つが破壊と創造を両立してることもあれば、いくつかの流れの中で持つこともあると思うん だけど。例えば展覧会とか。そのフレームの違いは人によって違うよ。一人の作家が、一つ権威的な作品のあと、 創造させる作品を作り、それらを混ぜて展覧会という一つの作品にすることもあるんではないのかな。
 そういったことを理解してる観衆がインスタレーションそのものを買っていったりするんだろうけど。」
について。
確かに、
「作品って一つ一つが破壊と創造を両立してることもあれば、いくつかの流れの中で持つこともある」でしょう。
でも僕は一つの作品の中にある、破壊と創造の両面性にこだわりたいです。
ただ、インスタレーションは例外です。
というのも、
展覧会において両立しているのと、インスタレーションにおいて両立しているのとでは、意味が違います。
もっというと、“場所”の意味が違います。(意味レベルが違う)
展覧会も、インスタレーションも、芸術という“場所”です。
しかし、展覧会という“場所”の外縁が接触しているのは社会です。
それに対して、インスタレーションという“場所”の外縁が接触しているのは観衆です。
だから、展覧会という“場所”は社会的なレベルで意味を持ち、
インスタレーションという“場所”は、観衆において、体験レベルで意味を持ちます。
そういうわけで、
展覧会の内部で破壊と創造が両立している場合と、
インスタレーションにおいて破壊と創造が両立している場合を、僕は区別します。
 

(無題)

 投稿者:ハチ公  投稿日:2009年 3月 2日(月)03時03分27秒
返信・引用
  「実際に解釈の交流があるわけではなく、
僕が作家に要求したい態度は、所詮、態度であり、
僕が観衆に認めたい権利は、行使する力のない仮想的な権利です」

こういうことなら、「返答」ということも理解しやすいよ。作家が作品を目の前にした観衆に対して受け入れる用意がなされて作品を作っているかってことでいいのかな。その態度?

それから、返答は観衆がというのもわかります。作品の最初の観衆は作家だから。
ただ、どのような状態が、解釈の交流になるのかってことなんだけど。


それから、芸術が権威的であってはいけない。これは、前々から問題になってることだね。よく話してたよ、僕と韓国の先生の間で。これは商業芸術があった時代からだと思うけど。コマーシャル的というか。なんて言ったらいいんだろう。確かに権威的なことをしすぎると、その相手に対して一方通行にしてしまう。作品は一方通では行けないと思うし。権威的なことは、人の解釈、思考を止めてしまうし、かこってしまうことだからね。
人が何かを知って、考え、発言していくことからは真逆な行為だと思います。
僕も常々、自分の作品が押しつけになってはいけないと考えてるよ。
自分が作ったことに対して固定概念で押し付けてないか、もっと、違った示し方のほうが観衆が入り込める隙間があるんではないかと考えている。だから、2=□+□のような示し方が出てきたの。

それから、「芸術の調和」。破壊と創造を両立してることが調和ってこと?
チャップリンの話で出てきた「僕らは既成の倫理の破壊と、そこに予感される完全な倫理を同時に体験するのです。」これの方がわかりやすい。

あと、作品って一つ一つが破壊と創造を両立してることもあれば、いくつかの流れの中で持つこともあると思うんだけど。例えば展覧会とか。そのフレームの違いは人によって違うよ。一人の作家が、一つ権威的な作品のあと、創造させる作品を作り、それらを混ぜて展覧会という一つの作品にすることもあるんではないのかな。
そういったことを理解してる観衆がインスタレーションそのものを買っていったりするんだろうけど。

とりあえず、こんなとこです・・・。
 

うーーーん。

 投稿者:ハチ公  投稿日:2009年 2月27日(金)00時16分55秒
返信・引用
  もう少しまって。

ちなみに、挑発的とは思わないよ。
今回のパトの投稿は共感できるところが多い

ダミアン・ハーストは好き、俺がアートについて考え思うところとは別物だけど。
その説明まで手が届いたらするよ。
簡単に言うと、演技のいい俳優は沢山いるけど、(例えば、ショーン・ペンとか。)
でも、ジャッキー・チェンは好きみたいなもんです。

うーん。。では、今しばらく。。
 

芸術の倫理(破壊と調和、矛盾概念を両立させるメタ倫理)

 投稿者:Patrasche  投稿日:2009年 2月18日(水)15時44分44秒
返信・引用
  もっともな指摘をありがとうございます。
やっぱり、思索にパートナーは必要なんですね。
対話の中で人は磨かれていくのでしょう。ソクラテスは正しい。
ただ、誤解をといておきます。
この掲示板の開設と、
芸術を“場所”として捉えようとする僕の思想的趣味は関係ありません。
この掲示板に芸術における“場所”のような崇高な意味などありません。
“解釈”という意味では通じるところもありますが、本質的なところでは、やはり別物です。
「書く」力を鍛えたい。芸術について「書く」機会が欲しい。それが本音です。
芸術はもっとも「書く」のが難しい分野ですから、なおさらのことです。
ハチ公さんなら付き合ってくれるかなぁ、と思いまして。
しかし、今はその動機に加えて、掲示板という機会だけでなく、
相手(ハチ公さん)に鍛えさせて頂くのだと、感慨深く実感しています。ありがとうございます。
昔、中学時代、陸上部の顧問が、
陸上は個人競技であるが、仲間が大変重要であると説いていたのを思い出しました。

しみったれた話はこのへんにして、意見を述べます。
挑発的な態度も辞さない心持ちであります。
大枠で、僕らの趣味は同じなのかもしれません。
しかし、あえて、微細な思想の差異を追求しましょう。衝突する論点を炙り出しましょう。

まず、
「作家に直接、言う人もいれば、そのことを持って帰ってもらい、それについて議論した人達の間で見方や知り方が変わることもある」
について。
ハチさんが誤解されているというより、完全に、僕の表現が不十分でした。未熟でした。
僕の関心は、
観衆は芸術家に対して、実際に!!返答できるかどうか、できるならどのようにできるのか、
というところにはありません。
僕の関心は、作品および作家の“態度”にあります。(これは、さっき気付きました。)
作家が、返答を受け入れる態度をしているのか、返答の権利を認める態度をしているのか。
その態度が具体的にどのようなものなのか、お答えする準備はありません。ごめんなさい。

「返答の権利とか、権利を行使する機会は用意されているとかは、この場では重要だけど。」
そのとおりだと思います。
僕が作家の“態度”にこだわるならば、返答というより、返答の権利が重要になります。権利!!
それで、
作家の側に観衆の返答を受け入れる“態度”がそなわっていて、
観衆の側に返答の“権利”があるならば、
そして、その“態度”と“権利”に焦点を合わせて芸術を考えるならば、
芸術を“場所”として表現するのが一番自然だと思います。
作家と観衆の間に、実際に解釈の交流があるわけではありません。
また、実際に解釈の交流が実現できるわけではありません。(できたとしても、それは芸術とは本質的に無関係)
あるのは、返答(解釈の交流)を認める作家の“態度”と、
観衆の返答(解釈の交流)をする“権利”、
その二つが織り成す“場所”なのだと思います。

「何が返答するのか」について、
それは観衆だと思います。
ただし、作家も、作品の提出後、作家という特権的な地位から降ろされて、観衆に組み込まれるのだと思います。
作家が観衆に組み込まれる、という考えも、芸術を“場所”として捉えると、まとまりがいいと思います。
作家が観衆に組み込まれて、作家がいなくなっては、
観衆が返答する対象がいないではないか、と思われるでしょう。
そうです。実際にはいません。実際には!!
(芸術において、実際(=現実の物理的空間)の問題は本当に小さな意味しか持ちません)
観衆が返答する対象は間違いなく作家です。その作家は実際にはいません。
作家は象徴化するのです。象徴として作家は“います”。象徴としてのみ、“います”。作家から“作家”へ。
観衆は、作品をとおして、キャプションをとおして、あらゆる常識をとおして、象徴として“作家”を認めます。

最後に、
実際に解釈の交流があるわけではなく、
僕が作家に要求したい態度は、所詮、態度であり、
僕が観衆に認めたい権利は、行使する力のない仮想的な権利です。
それほど抽象的で、力のない、“態度”と“権利”という考え方を導入してまで、
なぜ“場所”という言い方にこだわるのか。それを述べます。

僕は、芸術には倫理があると思います。つまり、あるべき姿があると思います。
芸術は、ある意味において、その本質は倫理の破壊に根付いています。
アンチ倫理的活動としての芸術は、ユウマなんかが気に入りそうな考え方です。あと階段を爆破する人とか。
そのような考えは、一理あると思います。
しかし、その一方で、芸術は調和を志向するものでなければならないように思います。
ある面で、芸術は爆弾です。
現実世界に“切れ目”を入れて、既成の体制を観念上で切り裂き、固定観念を破壊し、僕らの足下を突き崩す。
しかし、同時に芸術は創造です。
焼け野原に立ち上がる桃源郷。僕らの本心を覚醒させ、満足させる新世界。

チャップリンは『モダンタイムズ』において、社会が自動化し、家畜化する労働者を描写しました。
そこでは僕らの価値観が破壊されます。現代の不気味さが明らかになり、倫理の絶対性は崩壊します。
しかし、同時に、社会の本当にあるべき姿が、そこには示されています。
『モダンタイムズ』おいて、
僕らは既成の倫理の破壊と、そこに予感される完全な倫理を同時に体験するのです。

このように、芸術において、倫理は破壊され、同時に創造されます。
既成のものは壊され、より高次のものを予感として示します。
破壊と創造、その両立が芸術だと思うのです。
一つの芸術の内側で、破壊と創造という矛盾する事態が同時に起こる。
そのような、複雑な事態が成立するには、芸術に特別な性質がそなわっていなければなりません。
その性質とは、自己解体です。
芸術は自分の力で自分を壊し、自分の力で自分を創造します。
人間の内側で、無数の細胞が死滅し、同時に誕生するように。
さて、死と生が同時に起こるには、それを受け入れる“器”が必要です。
細胞においては、人間がその“器”です。
(ある個人の同一性の根拠は“器”です。中身は日々、別人になっているのに。)
では、芸術においては、“器”は何でしょうか。
僕は、それが芸術を体験する“場所”なのだと思うのです。
芸術という“場所”によって、僕らは死と生を、破壊と創造を、同時に体験します。
場所がなかったら、その体験は成立しません。(人間という“器”を持たない細胞のように。)
破壊と創造というダイナミックな事態を成立させる“器”、それが芸術という“場所”なのだと思います。
これは、絶対に“場所”でなくてはならない。
“場所”を持たない芸術は、破壊か創造か、どちらか一方の性質しか持たないものであるか、
あるいは、短命で、不変性を持たないものであると思います。

芸術が“場所”であるために必要な倫理(すなわちあるべき姿)、
それは権威的でないということです。
権威的な芸術は一方通行です。
ダミアン・ハーストは大変、権威的だと思います。
観衆に返答の権利が用意されているとは思えません。
一つの真理を、天から撃ち落とすような、一神教的な趣味だと思います。
破壊はあっても、調和の予感は皆無です。
威厳ある雰囲気が、観衆を謙虚にします。
僕は牛の作品しか見ていないので、あまり偉そうなことはいえませんが、少しだけ。
あの作品が劣悪なものだとは思いません。あれは確かに芸術作品だと思います。
ただ、あれは、芸術のある一面しか捉えていないように思うのです。
あのような方針を全面的に認めるならば、世界で最高の芸術作品は既に存在しています。
それは核兵器です。
核兵器は芸術か。ここのようなマニアックな掲示板でしかいえないことですが、
僕はある意味で、核兵器は確かに芸術だと思います。
そしてそれはダミアン・ハーストの志向性の延長線上にあると思います。
(村上隆のキノコ雲をモチーフにした作品も同様で、ある意味で芸術の本質を捉えています。それは破壊です。)
しかし、これらは、やはり芸術の倫理からはずれてしまうでしょう。
調和(創造)という面を完全にとりこぼしています。
したがって、“場所”となっていない。
すなわち、作家の側に返答を認める“態度”がなく、
観衆の側に返答の“権利”がない。

このように、“場所”という考えを導入すると、いろいろ説明しやすいように思います。


今日は時間があったので長い作文を書きました。挑発的な内容で、無礼をお詫びします。
ダミアン・ハースト、好きでしたよね?
ところで、一緒に卒業制作展行きません?
 

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